深夜一時四十三分。
「……ちっ」
最悪だぁ。
眼を細め、掌に納まる懐中時計から視線を上げて、眼前にそびえ建つ夜闇に溶けた邸を見上げる。
普段荒げることのない息遣いが、少し肩を揺らす程度に乱れていた。
パチン、とわざと音を立てながら秒を刻む銀時計の蓋を閉じ、描かれた紋様を指先でなぞりながら、溜息をつくようにそっと瞼を閉じる。
自然と寄る眉間を止めることなどできない。
「ったく……ありえないぜぇ……」
よりにもよって。
ふう、と鼻から息をひとつ吐いて、ゆっくりと、冷静になれと言い聞かせるように瞼を持ち上げる。
深夜の底冷えは身体に響く。
こうして落胆に身を任せ、突っ立っていたところでどうにもなりはしないとわかっている…のだが。
「………とりあえず、行ってみるかぁ……」
ザリ、と一歩を踏み出しながら。
懐に時計を仕舞いこんで、スクアーロはボンゴレ本邸の扉に向かって手を伸ばした。
ミッドナイト・ハイ
扉の隙間からは何も漏れてこなかった。
光源を失った部屋の中を、戸板を挟んで窺って、感じ取れるものはといえば精々野郎の寝息くらいだろう。
当然だ。
言ってしまえばド深夜なのだから。
明日の朝も早かろうあいつに、この時間まで起きていろというのは無理な話。
それに……起きていろ、と言える間柄でもないわけで。
「無駄足、か。まあ……今回の場合、悪いのは俺の方だしなぁ…」
ポリポリと指先で頭皮を掻きながら、上着の左ポケットを探る。
作り物の指にカツンと当たって硬質な感触を伝達させるそれは……今日ではなく、昨日のために用意したものだった、のに。
遅れてしまっては、意味の無いガラクタだ。
しかし。
……今更、といえば今更だが、後生大事にしまっておくというのも情けないことこの上ない。
「それにしても……」
橙の灯を宿すランプが点々と照らす廊下に、人の気はほとんど感じられない。
ボンゴレの十代目直属の部下や更にその部下が待機しているはずの邸だというのに……。
「護衛の一人も見かけないってのは……不気味だな」
嵐の前のなんとやら。
胸がざわめくほどの静寂が訪れるというのは、十代目の周囲を固める連中を思うと非常に珍しい事態だ。
何かしらの騒ぎを起こすことが、もはや生活の一部と化している奴らがこうも大人しいというのは……とてつもなく気味が悪かった。
「……まあいい。とりあえず……問題はコレか」
ポケットに突っ込んでいた左手を引き抜く。
義手にすっぽりと覆われて取り出されたのは、掌に収まる程度のベルベットを纏う小箱だった。
……念のために言っておくが、アレではない。
色恋を滲ませるような、誓いを込めるような、永遠を契るような丸い、わっかの類では、決してない。
断じてない。
何度でも言わざるをえないのだが……あいつと俺は、そういう関係ではないからだ。
……今は、まだ。
「って!何考えてんだぁ俺は!!」
ありえないだろそういうことはぁあああ!
と、叫びそうになり、慌てて口を紡ぐ。
寝首をかく、というわけではないが、奴の睡眠をわざわざ妨げようとは思わないからだ。
寝てるなら寝てりゃいい。
起こして面倒をかけるくらいなら、勝手に静かに、やりたいことを遂げて去ればいいのだから。
……正直なところ、あいつと二人きりで面と向かって、というのを避けたいというところも、ある。
再度隙間から気配を窺ってみる…と……。
…気配は先ほどとなんら変わりなく、ベッドと同化するシーツの塊のままらしい。
これはこれで警戒心が薄すぎやしないかと不安がよぎるが、まあ、いい。
まあ今回はいいだろう。よしとしよう。
俺にとって都合がいい時は目を瞑ろう。
なんとも勝手な理屈だと頭の片隅で自覚しながら、しかしその屁理屈から目を逸らし、俺は眼前のドアノブに手を掛けた。
防衛策万全といえど、身内だからこそ注意点も欠点も知っている。
さすがの俺でも仕掛けの施された扉に対し、まったくの無音、というわけにはいかないが、最小限の気配で止められる自信はあった。
身を滑り込ませた室内は、幾分冷えていて。
面倒臭がる十代目は、エアコンのスイッチを入れることすら億劫だったらしい。
抜き足、差し足、忍び足。
日本人は面白い言葉を紡ぐもんだ、と半ば呆れ、半ば感心しながら歩みを進める。
緩やかに上下するベッド上の、真白のシーツ。
夜目が利くおかげで、障害物に当たることもなく、標的を捉えることができた。
十代目、といえどまだ正式にボンゴレの全てを継いだわけではない野郎、沢田綱吉の寝室は、ドンのそれにしては若干無防備な造りだ。
(暢気に寝こけやがって……俺がもし本気出せば、お前は今頃三枚におろされてるんだぜぇ……)
ベッド脇で立ち止まり、視線を斜め下へと落とす。
夜目が常人より利くが故に、光源が頼りない月明かりだけというこの状況下でも、野郎の寝顔がはっきりと見える。
普段ぱっちりと見開かれる大きな瞳を覆う瞼。
呼吸のたびに震える睫毛。
細く鼻を抜ける吐息。
薄っすらと開かれた、艶やかな唇。
奴はどうにもインドア派の気を漂わせているからなのか、肌は日に侵される兆しもなく、淡く白く…発光しているのかとさえ思えてしまう。
常人より利く、目。
暗殺者として生きてきたことに、悔いを感じることなどまったく、微塵も、これっぽっちも感じはしないが。
……これほど感謝したことも、今日この瞬間くらいだろう。
「って…!俺は、何を……!」
そうじゃないだろう、俺ぇ!
と自分を見つめなおしながら、頭を軽く左右に振る。
その際肩を掠めて頬を擽った己の髪が、柔い月光を弾いて、俺の意識をクリアにした。
ああ……月が大分傾いている。
のんびりしている場合じゃない。
用心深く綱吉の様子を窺いながら、そっと枕もとに左手を伸ばす。
その手には、先ほど取り出した小箱がしっかりと握られていた。
「ったく……俺はサンタかよ」
季節はずれもいいところだ、と肩を下げながらフウと息をつき、傾けていた身を持ち上げる。
あまり長く奴の顔を見ていると、何故だか、何かとんでもないことをしてしまいかねない気がするのだ。
目を閉じて、天を仰ぐ。
肌で、こいつの存在と空気を感じ取る。
部屋中から発されるこいつの持つ特有の、平凡という特殊さがよく馴染んだ部屋だ。
(完璧に、信を置けると踏んだわけでは、ないが)
ふと目を開けて下を見遣れば、寝返りをうった十代目、綱吉が、俺の方へと身体を向けた。
衝動、というには緩やかに。
理知的、というには及ばぬ速さで。
自然と再び身体が傾ぎ、そっと、唇を奴の耳元に寄せていた。
何をやっているんだと、頭の片隅で呆れながら。
「Buon
compleanno. 綱吉」
言うや否や、俺はさっと背を向けた。
やるべきことは、全てやった。
いささか、余計な、こっ恥ずかしい真似をしたような気もするが……。
忘れろ。
今日だけだ、こんなこと。
慣れないことをして、若干テンションが上がっているのやもしれない。
それも…きっとすぐ元に戻るだろう。
敷居を跨ぐ瞬間、チラと首を回して奴の寝姿を確認しながら、俺はそっと退室した。
自然と緩む口端を、無理に制御はせぬままに。
本邸の玄関口を出れば、冷ややかさを増した風が髪を巻き上げた。
すぐさま左手で押さえながら、足を踏み出す。
と、その瞬間。
「スクアーロ!!」
肺を、肋骨を、突き抜けるような…ぞくりとした衝撃がせり上がる。
冷静さを保て、と繰り返しながら、ゆっくりと顔を、先ほどまで己が踏み入れていた邸の方へと、向ける。
「スク、アーロ!!」
声は、随分と高いところ……四階に据えられた屋敷のメインテラスから落ちてきた。
そういえば、あいつの寝室とメインフロアは…繋がっていたっけか。
「ちょっと待って、スクアーロ!」
「う゛お゛ぉい!そんなに頭出すんじゃ―――」
手すりに両手をつき、思い切り身を乗り出して俺を覗き込む綱吉の視界は、おそらくテラスの下に広がる突き出し部分で遮られているのだろう。
玄関部分の屋根に当たるそれは大きく広がっており、ちょうど中央にしつらえられたテラスからしてみれば大いなる死角を生む。
しかし…あの乗り出し方は、危険だ。
あのような、足すらも浮かせて体重を前に傾けていれば、手を滑らせたりするとあっという間に…。
「「あっ」」
落ちるぞ……ってえええええええ!!!?
「う゛お゛ぉおいいいいいい!!!」
お約束な奴だ。
なんてバカなんだ。
なんてマヌケなんだ!
注意力、警戒心は備わっているはずなのに、一点に集中すると周りが見えなくなるのは親父譲りか!
くっそ馬鹿野郎!
心中で激しく罵りながらも、手足は無我夢中で動いていた。
地を蹴り、張り出し部分に着地した俺は、すぐさま綱吉の落下地点を推測し、回りこむ。
頭から落ちてくるものだから、受け止めるにしてもどうにかいい体勢を取らせなければ首の骨が折れてしまう可能性が高い。
瞬間的な対応を求められる。
と、一瞬。
驚きに目を見開いた綱吉と…一瞬だけ、目があった。
……馬鹿が。
手間とらせんじゃねえよ。
だが……。
絶対、受け止めてやる。
ドッ。
ガッ。
――――ボキ。
「……あ、いたたたた……尻打った………って…スク!?スクアーロ!!?う、うわぁあああ!だ、誰か!誰かぁああああ!!!」
ケツを打って喚く綱吉の叫びとほぼ同時。
屋敷中の明かりが一斉に点いたのを最後に、俺の記憶はふつりと途切れた。